31年間勤めた消防を辞めると決めた日、いちばん最初に伝えたのは妻だった。
夜、食卓に子どもたちの笑い声が響いている中、どこかで腹をくくらないといけないと思った。

「……仕事、辞めようと思う。」

そう言うと、妻は箸を止めて、静かにこちらを見た。

少し間があってから、彼女は言った。

「うん。無理しなくていいよ。」


驚きは、なかった。
心配も、少しだけあったかもしれないけど、責めるような言葉は一つもなかった。

思えば、妻はずっとそういう人だった。
子どもたちにも、「学校で嫌なことがあったら休んでいいよ」と言うような人。
嫌なことに無理に立ち向かうことよりも、まず“心が元気でいること”を大事にする人だ。

長男はその時、黙っていたけど、あとでぽつりと「お父さん、ほんとは大変だったんだね」と言ってくれた。
中学生らしい、少し大人びた表情だった。

次男は、「じゃあこれからはずっと家にいるの?」と目を輝かせて聞いてきた。
彼にとっては“お父さん=仕事でいつもいない人”だったのだろう。

「うーん、家にはいるけど、ずっと遊んでるわけじゃないぞ。次の仕事、頑張らないといけないんだ」

そう言うと、「ふーん。でも今日ゲームしていい?」とニコニコしていた。

家族に支えられているというのは、こういうことなんだと思った。

何かを辞めるというのは、決して「逃げ」ではない。
「新しい自分を始めるための決断」なんだと、この日、家族が教えてくれた。


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